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関東大震災から学ぶ

大地震のメガニズムから記録資料まで

関東大震災から学ぶ

記録資料でたどる関東大震災

本ページでは、関東震災全地域鳥瞰図絵を徹底解剖するプロジェクトを紹介します(コンテンツは作成中)。

この研究は、以下の共同研究によります。

  • 静岡県立大学グローバル地域センター自然災害研究部門 楠城一嘉
  • 帝京大学経済学部経営学科&静岡県立大学グローバル地域センターアジア・太平洋部門 粟倉大輔

敬称略

 

表面|関東震災全地域鳥瞰図絵

 

  • 外側上部|大正13年9月15日 大阪朝日新聞 第15369号 付録
  • 外側右部|第3種郵便物認可 関東震災全地域鳥瞰図絵 吉田初三郎画伯筆
  • 外側左部|精版印刷株式会社 特許HB製版印刷

作成中

 

裏面|震災後の1年間

 

 

文字起こし

粟倉大輔先生による文字起こしを実施し、コメント付き新字体でも表記しました。

 

要約

ChatGPTを活用して裏面を要約しました。

  • 1923年(大正12年)9月1日の関東地震により東京は大きな被害を受け、富と命が奪われた。しかし、1年後には焼け跡にバラック(災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物)が立ち、銀座に人々が戻ってきて、これまでの復興の努力が焦土の東京に新たな息吹をもたらした。20万坪の焼失地の灰燼(かいじん: 灰や燃え殻)を整理した結果、18万9418戸、86万7593人の罹災者(災害に遭った人)が帰還した。しかし、震災前の人口数、世帯数までには戻っていない。交通・通信は復旧、自動車は震災前より増加し、電車の輸送能率は震災前と変わらないレベルまで戻った。電話は復旧途中、水道やガス、電燈(電灯)も復旧中。学校や劇場はほぼ復旧し、新東京の街路や公園整備も進行中である。横浜や鎌倉、小田原も復興が進んでおり、交通機関や公共施設の復旧作業が進んでいる最中である。

 

概要

ChatGPTを活用して各項目についてまとめました。

  • 新らしく生きんとする帝都|1923年(大正12年)9月1日の大地震で富と命を奪い、1年後には関東が新たな生命で満ちた。焼跡にバラック、銀座に人々。1年間の努力が焦土の帝都に新たな息吹を与えた。
    • 大変だった灰燼の整理|総坪数20万坪の焼失地を整理するために、3つの整理班を編成し灰懸を搬出した。1923年(大正12年)9月23日-10月15日は市の直営で実施。それ以降は請負が搬出し、整理費500万円、のべ20万人の人員を動員。本所深川方面へ搬出された灰懸は約10万坪。整理完了は1924年(大正13年)6月であった。
    • どれだけ焼跡へ帰ったか|安全地帯に避難していた罹災者も帰還し、1924年(大正13年)6月末までの総数は18万9418戸、86万7593人に達した。
    • 地震前より減った世帯と人|1923年(大正12年)7月1日の東京市は、世帯数44万1872、人口203万6136。現在の世帯数は37万6413、人口174万1500。したがって、世帯数は6万5459、人口は29万4636人減少している。
    • 交通通信機関はどうなった|地震で交通は混乱したが、一年後には復旧。増えた交通手段もある。
      • 自動車|震災前4,500台の自動車。復興で増加し、今は9,797台。自家用7,384台、営業用1,415台、官公署用998台。
      • 電車|郊外は震災前の状態に戻った。市内は車輌数が260台減少したがボギー車の増加により輸送能率は以前同様。
      • 乗合自動車|震災後、郊外移住者増加により東京の郊外で発展。乗合自動車の会社が40-50社あり。東京市の400台、東京市外乗合自動車の200台といった大規模のものから、10-20台を有する小規模のものまで。1924年(大正13年)8月の1ヶ月だけでも、東京市の乗合自動車だけでも、のべ111万2500人を運んでいる。
      • 諸車|人力車は焼失により自動車増加で影が薄まった。市内郡部合わせて1万708輌。自転車は激増し警視庁管内で3万台超。荷馬車も他府県から多数来たが、正確な調査はできていない。
      • 水上交通|震災前は芝浦の船舶数は1日10艘程度だったが、直後は救済品と復興材料の輸送で、横浜港の崩壊と陸路不能から、新しく開港した港様に活況となり、大型船艦50~60隻も停泊。現在、復興材料は整い、陸路も復旧したため小型商船20~30隻が寄港するのみ。河川交通としての艀船(はしけぶね)は全国から集まり、震災前より輸送力は増加。しかし、復興材料の増加により不足感が残る。総じて交通機関は震災前並み復興したが、橋梁修復は不完全で、道路も破損が多く、交通状態は未だ改善途中。
      • 電信(電報)|全復旧した。人員も整い成績良好だが、焼失した機械は未復旧。
      • 電話|震災前の加入者数は84,000。今年7月末には37,900まで復旧。自働電話(公衆電話)も復旧し、現在280箇所が稼働している。
    • 水道や瓦斯(ガス)や電燈は?|
      • 水道|水道管、消火栓、阻水弇(マンホール)などの破損箇所は多数。応急処置の結果4日目から自然流下区域は復旧し、17日には動力送水区域の山の手地域や高台地域も復水。給水栓(水道)は372,100と増加したが、送水復旧の完成は10月中旬を見込む。
      • 瓦斯|千住と深川のガス製造所・タンクが無事で、輸送管を応急修理。9月22日にはじめて本郷区の供給を再開。10月中には残焼(焼けずに残った)区域に供給。残る焼失地域も(1924年(大正13年))10月中に復旧予定。使用戸数・供給総量は徐々に回復している。
      • 電燈|市電(1911年に東京市が電気事業経営に乗り出す)は今年(1924年(大正13年))4月、東電(東京電燈株式会社)は昨年末(1923年(大正12年))に全復旧。震災前の点燈数は市電598455個、東電2,195,784個。(1924年(大正13年))6月末の個数は市電614,876個、東電1,047,111個。
    • 学校もたいていは開いた|小学校、中学校、高等女学校、実業学校、専門学校、大学のうち、震災で罹災したのは210校(総数374校のうち)。廃校は小学校6、休校中は小学校6校、専門学校1校。その他の学校はほぼ開校し、(1924年(大正13年))8月7日現在、学校は概ね復旧。
    • 新東京はこうして成る!|新東京の街路や運河、公園、土地区画整理は東京府市、神奈川県、横浜市共同で進行中。特別都市計画委員会(特別都市計画法)では街路や運河、土地区域制、市場、公園、小公園の案が可決され、現在、商業地域、工業地域、住宅地域、防火地域の指定について協議中で、大体の基礎が固まった。
      • 街路|東京市内四箇所の復興局出張所で市内の幹線道路、補助道路の測量がおよそ完了。区画整理と関係ない一部では拡張工事が行われる。有樂町から月島、上野公園前から押上、永樂町(千代田区大手町と丸の内の一部)から元千代田町(千代田区の一部)、桜田門外(千代田区桜田門)から新議事堂前(千代田区霞ヶ関)、芝今入町(港区虎ノ門)から赤羽橋、大手町から飯田橋、一つ橋から伊岐殿阪(壱岐坂、文京区本郷)、神田橋から湯島に至る線が該当する。
      • 橋梁|千代田橋、神田橋、法恩寺橋、親父橋、汐見橋、相生橋、今戸橋、船木橋、福島橋、黒亀橋については仮橋完成。江東橋、菊三橋、澤海橋、聖橋については基礎工事が始まり、隅田川に駒形橋、蔵前橋、相生橋の鉄橋をかけることも着手予定。
      • 運河|西堀留川の埋立は5割程度進んだ。日本橋川と横十間川は(1924年(大正13年))9月中に着手予定。荒川筋と日本橋浜町河岸については測量中。
      • 公園|現在の東京市の公園は29箇所で、面積75万坪。人口100人に対し20坪の割合である。新計画で大公園は国が担当、小公園は市が担当する。大公園として隅田公園、錦糸公園、浜町公園を設置予定。小公園として52箇所を設置予定。平均で1公園1,000坪とし、小学校に隣接して順次設置される。
      • 土地区画|復興地域を65地域に分け、そのうち15地域は復興局が担当。告示から選挙、区画整理まで進行した。第6区は既に着手し、(1924年(大正13年))9月に移転命令を発令予定。
      • 花街|洲崎と吉原は復興が早く、新しい家が建ち、絃歌(三味線の音と歌声)や女性の声が尽きない。吉原には見かえり柳(遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことからこの名が付いた)も再び植えられ、大門も建てられた。貸座敷、引手茶屋(遊客を遊女屋に案内する茶屋)、娼妓(しょうぎ)、待合茶屋(客と芸者に席を貸して遊興させる所)、芸妓屋(芸妓を雇い、または所属させて芸妓営業を管理・周旋する業者)は復活した。しかし娼妓の数は減少しており、娼妓が離散し戻ってこないことや貸座敷業者の資金難、そして不景気の影響が要因と考えられる。待合茶屋は震災前より現在の方が増加。芸妓屋や芸妓数は震災前より現在の方が減少している。
      • 劇場活動|帝劇は九分通り建築が完成し、(1924年(大正13年))10月1日に華々しく開場。木挽町の歌舞伎座も瓦葺の鉄筋コンクリート建設中で、前部は四階建て、後部は三階建てで地下室が付つく。(1924年(大正13年))11月末までに竣工、来春早々に会場予定。活動写真館(映画館)も1階建木造バラックで復活、特等席と一般席を分け、500~700人を収容。活動写真館は入場者数が増加し、昨年比で39万9498人増の216万4874人(1923年(大正12年)と1924年(大正13年)の1月の比較)。対照的に演劇は大激減で、入場者数は42万5350人減の21万5795人(1923年(大正12年)と1924年(大正13年)の1月の比較)。大劇場が震災で全滅し復旧の難しさが影響している。
    • 全滅の横浜とその復興|横浜の復興は東京に比べて遅れているが、進みつつある。海岸通り県庁跡近くには焼け残りの廃墟が残るが、新山下町では復興の喜びを感じる。横浜公園内にはバラックで郵便局や憲兵分隊が仮設され、伊勢佐木通りには電燈の光が煌めき、稲荷山の麓には関西村が開村した(関西2府6県の寄附によって建てられたバラック村)。
      • 戸数人口|横浜震災前の人口は約448,540人、家屋は93775戸であったが、震災により共にその数は減少。新築家屋と人口の増加により、1924年(大正13年)4月末時点で、共に約80%まで回復。しかし、震災の痕跡はまだ残り、震災前の人口に戻るには時間がかかる。
      • 在住外人|震災前は7,492人、震災直後の1923年(大正12年)12月には100人余りに減少。しかし、1924年(大正13年)8月には1,189人まで回復。
      • 港湾|東防波堤の長さ約900間(1.6km)のうち、端の614間(1.1km)、北防波堤の長さ約1,130間(2.1km)のうち、端の255間(460m)が平均8尺(2.4m)沈下。そのため、少し荒れた日には堤内の錨地(船がいかりを下ろして泊まる所)でも波浪を受け荷役(にやく: 船荷を上げ下ろしすること)困難の日が多かった。しかし、現在は両防波堤も修復完了し、両防波堤の先端にある赤白の両燈も完成(それぞれ横浜北水堤灯台(赤灯台)、横浜東水堤灯台(白灯台)。現在白灯台は山下公園の桟橋の先端に移設保存されている)。震災前の繋船能力(船を繋ぎとめること)は、繋船岸壁に12隻、桟橋に4隻、繋船浮標(錨(いかり)の代わりに、錨鎖(びょうさ)を結びつけて繋留するブイ)に20隻、港内に30隻だった。浮標20個は災害を免れた。岸壁は6号壁の補修済みで、他の工事進捗中。大桟橋は1925年(大正14年)10月に完成予定。船舶数は震災前の3,002隻から1,773隻に減少し、現在は約2,500隻に回復。税関構内及び港内の鉄道は7哩(15.6km)のうち3哩(4.8km)が未だ使用不可。起重機(クレーン)は50トン機1台のみ使用可能。
      • 街路|横浜市内19路線を改修し、横浜駅前と桜木町駅前に広場を設ける計画。費用は25,382,400円で、6年継続事業として着手。
      • 運河|堀割川などの運河を改修することになり幅員を広げる計画。大正17年度までの6ヵ年事業としている。
      • 公園|現在の公園は横浜公園と掃部山公園。さらに4つの公園を増設する計画。その公園は日の出公園、山下公園、野毛山公園、神奈川公園で、増設する公園の面積は55,800坪。
      • 土地整理|市内の焼失地約300万坪を実測し、その内、約75万坪を区画整理地域として14区域に分け精査中。商業会議所や市復興会が市民から計画の理解を得るために宣伝している。
      • 交通機関|震災で交通機関が壊滅し、街路や橋梁も崩壊。しかし、工兵隊や陸軍技術本部の支援で交通が回復。市電も復旧し、車輌数も増加、建物や変電所も復旧された。
      • 水道|水源地は津久井郡青山(現在の相模原市緑区東南部)で、供給能力は80万人分。震災で供給が途絶えたが、複数の合資会社が協力し給水を再開。10月までに全家屋に給水を行い、現在は35,000戸に供給中。
      • 電信電話|震災後、通信機関は麻痺状態だったが、電信(電報)と電話は共に再開。
      • 電燈|市内の電力供給は東京電燈(当時の電力会社)に依存し、送電量は1日平均23,000キロワット。そのうち動力用として23,907馬力で震災前と大差無し。電燈(電気を利用した照明)は397,772燈から199,155燈に減少。各家の平均燈数は震災前の5から4に変化。現在バラックの家屋が多いので今後本建築が進むについれて燈数は増加する。
      • 瓦斯(ガス)|震災前のガス工場は1か所、製造能力は164万立方呎(立方フィート)。震災で設備壊滅し、年末までほんの一部にガス供給の見込み。
      • 活動写真(映画)|震災前は劇場15館、観客数700〜1200名を収容していたが大部分は被害を受けた。現在は15館復旧し1館新設して16館となった。
      • 劇場|横浜座以外の喜楽座、朝日座、横浜劇場は復興し、横浜帝国館も開業。寄席は震災後に6箇所復興し2箇所新設された。
    • 鎌倉小田原はどうなった|東京から国府津までの鉄道各駅はほぼ倒壊。代わりに木造バラックが建ち、切符売り場に当てて運営。線路や鉄橋も修理され、複線が復活。被害の激しかった町村も復興し、緑樹を植えた文化住宅のようなバラックも見られる。
      • 鎌倉|複数の村を合わせて構成される鎌倉では、震災前の戸数7,391、人口36,843人。現在は戸数6,587、人口33,934人となり、戸数と人口ともに減少傾向。現在の内訳は残存家屋3,162戸(16,547人)、半壊家屋258戸(1,207人)、新築家屋2,238戸(11,120人)、バラック784戸(4,216人)、掘立小屋47戸(370人)、その他98戸(474人)。鎌倉の海岸別荘地では伏見宮邦芳殿下を含む多くの別荘が震災の被害から復興せず、物寂しい状況。山階宮武彦親王殿下の王妃佐紀子妃殿下の御別邸も草に埋もれて静まりかえり、大仏や八幡宮の施設も被害が残るまま。中学校、師範学校や郵便局もバラックで復旧し、避暑客も減少傾向で今年は2,450人に。
      • 小田原(当時の足柄下郡に存在した小田原町)|現在、バラック1,340戸(5,197人)、残存戸数734戸(4,128人)、新築家屋1,747戸(9,040人)。足柄下郡全体で見れば、震災前に比べ戸数254戸、人口5,791人減少。ただし、小田原町全体は横浜に比べて復興が早い。小田原町の目抜き通りのある幸町では劇場、活動写真館(映画館)は以前より賑わい、道路以外は大部分が復興した。御用邸(小田原城址にあった)において、安政の地震でも崩れなかった石垣が今回は崩れた。御用邸の一角にバラックを建て高等女学校が授業を継続、中学もバラックで開校。警察、郵便局、町役場、裁判所もすでに運営中。地域は意外にも速い復興を遂げている。

 

 

謝辞、文献

 

謝辞

  • 本絵図は静岡県立大学理事長兼学長の尾池和夫先生から寄贈いただきました(文献1)。

 

文献

  1. 尾池和夫, 関東大震災から百年, 窮理, 24, 2-10, 2023年, http://kyuurisha.com/.